歴史を学ぶ意味と高校世界史の勉強法についてまとめてみた ⒈ 意味編

 『世界史です』

 

「特技は?」っていう質問に、高校の頃いつもこう答えていました。

人生で誇れる特技なぞ何もなかった僕ですけど、世界史だけは得意でした。

 

ささやかな自慢ですが、高2の模試では全国偏差値80超えを果たし、センター試験本番も満点を取ることが出来ました。

 

受験期には、世界史が受験科目だったので勉強していたわけですが、特に理系の友達に頻繁に聞かれていた質問がありました。それは…、

 

『世界史なんて勉強して何の役に立つの?www』 

です。

 

確かに理系の人からしてみれば、自分と関係のない遠い地域や時代の歴史を学ぶ意味は理解不能だったかもしれません。

これ、世界史に限らず文系の人なら必ず聞かれる質問といってもいいでしょう。僕は「受験に必要だし、楽しいから」といって適当に凌いでいました。

 

ただ、受験に必要だから、では受験が終わってからが長続きしません。本屋には歴史の解説本が山のようにありますが、資格や受験がない人が学び直すには、受験だけでは理由が弱すぎます。

 

っつーわけで、今回は僕なりの歴史を学ぶ意味と特に世界史が必要でまだ時間がある受験生に向けていくつかアドバイスをしたいと思います。余裕があれば教材も紹介します。

 

なお、2回にわたるつもりです。

 

*高校で学ぶ世界史と、大学で行う歴史学は、名前こそ似ていますが全く異なるものです。アプローチも定義も深さもまるで違うので、あくまで『高校世界史』に絞って話を進めます。

 

 《世界史を学ぶ意義編》

⒈ 過去の異なる時代から人間の本質を知る。

紀元前の長い長い時代から人類は共同体を作り、国を作り、国家のシステムを整え、戦争をして、と作っては壊し、作っては壊しを繰り返してきました。

その間、多くの技術や文化の発達・発展もあり、僕たちは今日、先人の恩恵を享受しています。紀元前や古代から今日まで全く同じ形で存続している国はほぼありません。凶作や革命や暴動などで国家は倒れ、その度に多くの血が流れてきました。

 

地球は青い星ってだけじゃありません。争いという視点で見れば地球はどこもかしこも血で真っ赤っかです。 それを忘れちゃいけません。

 

しかし、当然ですが、全ての国家、為政者が悪かった訳ではありません。清朝初期の康熙帝や、拡大期のムスリムの統治政策、タイのプミポン国王など時代を超えても優れた人格などによって民衆の支持を集めた君主や、政策はあります。

 

逆に人々が政府に対して革命や反乱を起こすのはどういう時か。

簡単に言えば、腹が減った時、権力の堕落、重税などです。

これは古代ペルシアや、中国史フランス革命など時代を超えて共通しています。

 

時代や地域、服装や技術が変わっても人はそこまで変わらないのです。

 

生活が極限まで苦しければ、どうにかしようとするんです。清廉な指導者は支持を集めます。税が重けりゃ抗議します。

 

もちろん、今は先人のおかげで研究が進みました。グローバル化で国家は相互により影響を受けやすくなったので、かつてのように暴動はそう起こらないでしょう。

 

でもこれは国家の話だけじゃありません。僕たちの身の回りにも言えるんです。

社会は人間が作ってきたものですから、歴史から我々が学び、日常に活かせることはいっぱいあります。特に多くの人が何らかの形で集団と関わる今日では。

 

誰だって、話を聞いてくれる上司のもとで働きたいわけです。パワハラ気味に仕事押し付けてくるオラついた上司は嫌だし、一部の特権階級が甘い汁を吸う構造ならみんなが不満を持ちます。

 

将来、読んでくださった人の中で社会に出て責任ある立場に就く人も出てくるかもしれません。僕もその一人かもしれませんが、歴史が示してきたことはゆめゆめ忘れるべきじゃないなあと思います。

 

よく、「人間は同じ過ちを繰り返す」と言いますが、歴史から学ぶことを軽視してる人が少なかれいる世の中じゃ当たり前だと思います。入試に対しても色々言いたいことありますが、それはまた別の機会に。

 

⒉ 今の時事問題を正しく認識する

ここ最近、日韓問題に対してずーっと暗いニュースが続いています。韓国議長の天皇謝罪発言、輸出規制、GSOMIA破棄などなど、、。大学に韓国人の友達がいっぱいいる僕としては気の重くなる話ばっかりです。

 

「謝罪・賠償」 「いや日韓基本条約で解決済み」

 

ずーっとこの平行線ですわ。

 

ん…?チョットマテヨ…?

 

「何に対する謝罪?」 日韓基本条約って何?」

 ってなる人もいるんじゃないでしょうか。

 

もちろん、これだけ連日メディアで取り上げられてる日韓問題なら大筋を知ってる方も多いでしょう。が他はどうでしょうか。

パレスチナ問題、黒人差別、香港問題などなど…。悪い話ばっかじゃないです。何故台湾は親日国なのか、どうして中華料理はあんなにバリエーションが豊富なのか、、。

 

良い話も悪い話も必ずバックグラウンドがあります。今、我々が本やニュースで耳にする良い話も悪い話もそこだけ切り取られたら分からん訳です。

 

恋愛ドラマに例えたら分かりやすい。好きな俳優と女優を思い浮かべてください。

え?僕?そりゃあ、泉里香さんと堤真一さんですよ。

彼ら主演のドラマの視聴率が90%だとしましょう。周りもその話題で持ちきり。

でも貴方は見たことがなかった。

ちょっと観ようと思いTVを付けたら、6話の冒頭。恐らく前話のラストであろうキスシーンから始まります。しかしそこだけ観たら当然こうなります。

 

f:id:Yamashun:20190901235259j:plain

そりゃそうだ…。

「二人のプロフィールは!?」 「仕事は?」「ライバルはいないの!?」

「何で今こうなってんのぉぉぉぉ!!」

 

内容についていけない貴方は、ネットで「これまでのダイジェスト」とか探すんじゃないでしょうか。

 

これと同じことが時事問題にも言えます。

今、世の中で起きてる問題は、言わば「ドラマの6話」です。

しかも最初から生きてるわけでもない我々はそこから観ざるをえない。

 

そこでダイジェストの役割を果たしてくれるのが「歴史」です。

過去を詳しく知れば、現在のこともよりクリアに見えてきます。

正しい認識を持てるようにする。これが歴史を学ぶ2つ目の意義だと考えます。

 

⒊未来を知り、よりよく生きる手がかりになる。

これは⒈と少し被ります。未来は予測不可能です。明日どうなるのかさえ、誰にも分かりません。しかし、過去の失敗から未来を考え、最悪の状況から遠ざけることはできるかも知れない。あるいは何か起きても初動を早く起こせるかも知れない。

今、世の中は変化の真っ最中な上に、個性的な面々が各国を率いています。

過去に似たような状況は無かったのか。もしあったらその時はどうなったのか。

共通点はないのか。これからどうなりそうなのか。

 

そういった手がかりに歴史はなってくれるでしょう。勿論。100%的中とはいきません。しかし、被害を最小限に食い止められるかも知れない。逆に最大の利益を得られるかも知れない。

 

そのために過去から学び取る。これが僕が思う3つ目の意義です。

 

少し長くなりました。人間生きてく上で後悔は良くないと思います。

しかし、よりよく生きていく上で時に後ろを振り返ることもまた、必要だと思っています。歴史から学べることは沢山あります。それを遺してくれたのは、今日我々が生きてる世界を作ってくれた、夥しい数の犠牲に他なりません。

 

死人に口無し。言葉こそ無いが、我々の頼もしい先生です。

我々には学習能力が一応、あります。

過去から学び、次代への教訓を遺す。そのために過去をしっかり学ぶ意味はあると思います。

 

最後まで読んでいただき有難うございました。次回は学習方法編です。

 

 

 

 

歴史を学ぶ意味と高校世界史の勉強法についてまとめてみた ⒈ 意味編

 『世界史です』

 

「特技は?」っていう質問に、高校の頃いつもこう答えていました。

人生で誇れる特技なぞ何もなかった僕ですけど、世界史だけは得意でした。

 

ささやかな自慢ですが、高2の模試では全国偏差値80超えを果たし、センター試験本番も満点を取ることが出来ました。

 

受験期には、世界史が受験科目だったので勉強していたわけですが、特に理系の友達に頻繁に聞かれていた質問がありました。それは…、

 

『世界史なんて勉強して何の役に立つの?www』 

です。

 

確かに理系の人からしてみれば、自分と関係のない遠い地域や時代の歴史を学ぶ意味は理解不能だったかもしれません。

これ、世界史に限らず文系の人なら必ず聞かれる質問といってもいいでしょう。僕は「受験に必要だし、楽しいから」といって適当に凌いでいました。

 

ただ、受験に必要だから、では受験が終わってからが長続きしません。本屋には歴史の解説本が山のようにありますが、資格や受験がない人が学び直すには、受験だけでは理由が弱すぎます。

 

っつーわけで、今回は僕なりの歴史を学ぶ意味と特に世界史が必要でまだ時間がある受験生に向けていくつかアドバイスをしたいと思います。余裕があれば教材も紹介します。

 

なお、2回にわたるつもりです。

 

*高校で学ぶ世界史と、大学で行う歴史学は、名前こそ似ていますが全く異なるものです。アプローチも定義も深さもまるで違うので、あくまで『高校世界史』に絞って話を進めます。

 

 《世界史を学ぶ意義編》

⒈ 過去の異なる時代から人間の本質を知る。

紀元前の長い長い時代から人類は共同体を作り、国を作り、国家のシステムを整え、戦争をして、と作っては壊し、作っては壊しを繰り返してきました。

その間、多くの技術や文化の発達・発展もあり、僕たちは今日、先人の恩恵を享受しています。紀元前や古代から今日まで全く同じ形で存続している国はほぼありません。凶作や革命や暴動などで国家は倒れ、その度に多くの血が流れてきました。

 

地球は青い星ってだけじゃありません。争いという視点で見れば地球はどこもかしこも血で真っ赤っかです。 それを忘れちゃいけません。

 

しかし、当然ですが、全ての国家、為政者が悪かった訳ではありません。清朝初期の康熙帝や、拡大期のムスリムの統治政策、タイのプミポン国王など時代を超えても優れた人格などによって民衆の支持を集めた君主や、政策はあります。

 

逆に人々が政府に対して革命や反乱を起こすのはどういう時か。

簡単に言えば、腹が減った時、権力の堕落、重税などです。

これは古代ペルシアや、中国史フランス革命など時代を超えて共通しています。

 

時代や地域、服装や技術が変わっても人はそこまで変わらないのです。

 

生活が極限まで苦しければ、どうにかしようとするんです。清廉な指導者は支持を集めます。税が重けりゃ抗議します。

 

もちろん、今は先人のおかげで研究が進みました。グローバル化で国家は相互により影響を受けやすくなったので、かつてのように暴動はそう起こらないでしょう。

 

でもこれは国家の話だけじゃありません。僕たちの身の回りにも言えるんです。

社会は人間が作ってきたものですから、歴史から我々が学び、日常に活かせることはいっぱいあります。特に多くの人が何らかの形で集団と関わる今日では。

 

誰だって、話を聞いてくれる上司のもとで働きたいわけです。パワハラ気味に仕事押し付けてくるオラついた上司は嫌だし、一部の特権階級が甘い汁を吸う構造ならみんなが不満を持ちます。

 

将来、読んでくださった人の中で社会に出て責任ある立場に就く人も出てくるかもしれません。僕もその一人かもしれませんが、歴史が示してきたことはゆめゆめ忘れるべきじゃないなあと思います。

 

よく、「人間は同じ過ちを繰り返す」と言いますが、歴史から学ぶことを軽視してる人が少なかれいる世の中じゃ当たり前だと思います。入試に対しても色々言いたいことありますが、それはまた別の機会に。

 

⒉ 今の時事問題を正しく認識する

ここ最近、日韓問題に対してずーっと暗いニュースが続いています。韓国議長の天皇謝罪発言、輸出規制、GSOMIA破棄などなど、、。大学に韓国人の友達がいっぱいいる僕としては気の重くなる話ばっかりです。

 

「謝罪・賠償」 「いや日韓基本条約で解決済み」

 

ずーっとこの平行線ですわ。

 

ん…?チョットマテヨ…?

 

「何に対する謝罪?」 日韓基本条約って何?」

 ってなる人もいるんじゃないでしょうか。

 

もちろん、これだけ連日メディアで取り上げられてる日韓問題なら大筋を知ってる方も多いでしょう。が他はどうでしょうか。

パレスチナ問題、黒人差別、香港問題などなど…。悪い話ばっかじゃないです。何故台湾は親日国なのか、どうして中華料理はあんなにバリエーションが豊富なのか、、。

 

良い話も悪い話も必ずバックグラウンドがあります。今、我々が本やニュースで耳にする良い話も悪い話もそこだけ切り取られたら分からん訳です。

 

恋愛ドラマに例えたら分かりやすい。好きな俳優と女優を思い浮かべてください。

え?僕?そりゃあ、泉里香さんと堤真一さんですよ。

彼ら主演のドラマの視聴率が90%だとしましょう。周りもその話題で持ちきり。

でも貴方は見たことがなかった。

ちょっと観ようと思いTVを付けたら、6話の冒頭。恐らく前話のラストであろうキスシーンから始まります。しかしそこだけ観たら当然こうなります。

 

f:id:Yamashun:20190901235259j:plain

そりゃそうだ…。

「二人のプロフィールは!?」 「仕事は?」「ライバルはいないの!?」

「何で今こうなってんのぉぉぉぉ!!」

 

内容についていけない貴方は、ネットで「これまでのダイジェスト」とか探すんじゃないでしょうか。

 

これと同じことが時事問題にも言えます。

今、世の中で起きてる問題は、言わば「ドラマの6話」です。

しかも最初から生きてるわけでもない我々はそこから観ざるをえない。

 

そこでダイジェストの役割を果たしてくれるのが「歴史」です。

過去を詳しく知れば、現在のこともよりクリアに見えてきます。

正しい認識を持てるようにする。これが歴史を学ぶ2つ目の意義だと考えます。

 

⒊未来を知り、よりよく生きる手がかりになる。

これは⒈と少し被ります。未来は予測不可能です。明日どうなるのかさえ、誰にも分かりません。しかし、過去の失敗から未来を考え、最悪の状況から遠ざけることはできるかも知れない。あるいは何か起きても初動を早く起こせるかも知れない。

今、世の中は変化の真っ最中な上に、個性的な面々が各国を率いています。

過去に似たような状況は無かったのか。もしあったらその時はどうなったのか。

共通点はないのか。これからどうなりそうなのか。

 

そういった手がかりに歴史はなってくれるでしょう。勿論。100%的中とはいきません。しかし、被害を最小限に食い止められるかも知れない。逆に最大の利益を得られるかも知れない。

 

そのために過去から学び取る。これが僕が思う3つ目の意義です。

 

少し長くなりました。人間生きてく上で後悔は良くないと思います。

しかし、よりよく生きていく上で時に後ろを振り返ることもまた、必要だと思っています。歴史から学べることは沢山あります。それを遺してくれたのは、今日我々が生きてる世界を作ってくれた、夥しい数の犠牲に他なりません。

 

死人に口無し。言葉こそ無いが、我々の頼もしい先生です。

我々には学習能力が一応、あります。

過去から学び、次代への教訓を遺す。そのために過去をしっかり学ぶ意味はあると思います。

 

最後まで読んでいただき有難うございました。次回は学習方法編です。

 

 

 

 

「マウント」を気にしたら何もできない。

 今年に入ってから「マウント」と言う言葉をよく耳にする。

 

相手を互いに格付けしあい、自分の優位性をアピールする、という意味らしい。

マウントを取る事を「マウンティング」と言う。最初は山登りの事だと思ってた。

流行り言葉かどうかはよく分からないけど。

 

思い返せば、確かに小さい頃、露骨なマウンティングは日常茶飯事だった。

 

「いや、この前さぁーwww」

 「それ言ったら、俺なんか昔に…笑笑」

 延々この応酬だ。この頃はマウントという言葉も知らなかったが、これで笑えてるうちはまだ良かった。

 

ところが最近この行為がマウントと知ってから途端に生きづらくなった。

何を言ってもマウントを取った取られた、となるからだ。

 

そもそもマウントが生まれる場は会話が圧倒的に多い。

ここで僕は疑問に思うんだが、マウントは最近になって大量発生したのではなくて、マウント という言葉を知ってから、皆んな過敏になり過ぎてるだけだと思う。

 

コミュニケーションは情報交換のために行われる。どこに行った、何が美味かった、あそこは楽しい、、、。

 

その後に「どうだ凄いだろう」と心中で勝手に加えれば立派なマウンティングの完成だ。

 

そもそもマウンティングなぞ生物が登場した頃からやってきた事だ。

本能に従っているだけとは言え、動物の雄が立派な角を持ったり、雌を囲んだり。

高いスーツや腕時計、社会的ステイタスを身に纏う。

 

筋トレして強そうに見せるのも、自己紹介も、思い出話も、ブログもプレゼンさえも解釈によっては全てマウンティングだ。 そう捉える人生の何が楽しいのか。

 

ただただ生き苦しい。

 

そもそも競争が生物、ひいては社会の原理である中で他人より優位に見られようとするマウンティングは必然の事だと思う。

 

過度にマウントを気にする人がいるが、何て想像力豊かなんだろうと感心する。

と、同時に可哀想な人だとも思う。

 

その人がマウント取られたと思ってる目の前の人は、一生懸命有益なアドバイスをしてくれてるかも知れないのに。きっとその人の人生はつまんないんだろうな。

 

もう1つ理解不能なのはTwitter上でマウント云々という人。

Twitterはフォローが強制されないじゃないか。見たい人は自分で選べるじゃないか。

何故ツイートする前にフォロー解除しないんだよ。

 

僕は例え2、3人でも仲良く話してくれる人がSNSにいるから、使ってるだけだよ。

 

不思議で仕方がない。

 

ついさっき質問箱であなたもマウント要素かなりあると言われた。

 

言いたい事は1つ。

 

マウントが嫌なら、フォロー外すかミュートするかブロックしてくれ。

それ以外のマウントが嫌ならSNS全て断ち切って1人で部屋で過ごしてくれ。

外部と一切関わらない方がいい。

 

マウント取ってるんじゃないかと、話し方気をつけた時もあったけど、直ぐやめた。

会話が無味乾燥な乾パンみたいになった。何も楽しくない。

ガチでマウントキツい奴とマウント云々で責めてくる奴は話さないようにした。

 

多分その人に合わせても絶対良い人間関係気付けない。

 

思うに、大事な事はマウントを気にすることじゃなくて、マウントに変換しない事だと思う。

「マウント取られた」じゃなくて、「凄い人がいるもんだなぁ。」とモチベに変える事が出来れば少しは生きやすくなると思った。

 

要は捉え方の問題だ。

 

 

僕はマウントを取らない会話を心がける事自体は素晴らしいと思う。

円滑なコミュニケーションのために努力してるんだから。

でもやり過ぎは禁物。素の自分が死ぬ。

 

マウンティングを気にした会話よりも絶対自分らしくいた方が良い。

マウントを気にしたら何も出来ない。

本当にマウントがキツイ奴からは離れればいい。

 

 

少なくとも我々にはその選択肢があるのだから。

 

 

「マウント」を気にしたら何もできない。

 今年に入ってから「マウント」と言う言葉をよく耳にする。

 

相手を互いに格付けしあい、自分の優位性をアピールする、という意味らしい。

マウントを取る事を「マウンティング」と言う。最初は山登りの事だと思ってた。

流行り言葉かどうかはよく分からないけど。

 

思い返せば、確かに小さい頃、露骨なマウンティングは日常茶飯事だった。

 

「いや、この前さぁーwww」

 「それ言ったら、俺なんか昔に…笑笑」

 延々この応酬だ。この頃はマウントという言葉も知らなかったが、これで笑えてるうちはまだ良かった。

 

ところが最近この行為がマウントと知ってから途端に生きづらくなった。

何を言ってもマウントを取った取られた、となるからだ。

 

マウントが生まれる場は会話が圧倒的に多い。

ここで僕は疑問に思うんだが、マウントは最近になって大量発生したのではなくて、マウント という言葉を知ってから、皆んな過敏になり過ぎてるだけなんじゃないか。

 

コミュニケーションは情報交換のために行われる。どこに行った、何が美味かった、あそこは楽しい、、、。本来は情報を提供しあってより良く生きるのがコミュニケーションの目的のはず、だ。

 

その後に「どうだ凄いだろう」と心中で勝手に加えれば立派なマウンティングの完成だ。

 

マウンティングなぞ人類が登場した頃からやってきた事だ。

 

本能に従っているだけとは言え、動物の雄が立派な角を持ったり、雌を囲んだり。

理性の働く人でも高いスーツや腕時計、社会的ステイタスを身に纏う。

 

筋トレして強そうに見せるのも、自己紹介も、思い出話も、ブログもプレゼンさえも解釈によっては全てマウンティングだ。 そう捉える人生の何が楽しいのか。

 

ただただ生き苦しい。

 

そもそも競争が生物、ひいては社会の原理である中で、他人より自分を優位に見せるマウンティングは必然の事だと思う。

 

過度にマウントを気にする人がいるが、何て想像力豊かなんだろうと感心する。

と、同時に可哀想な人だとも思う。この人の人生つまんないだろうなと思う。

 

過度にマウント気にする人は自分に自信が無いのだと思う。もし本当に自信があったらマウントなんか気にしないはずだから。

その人がマウント取られたと思ってる目の前の人は、一生懸命有益なアドバイスをしてくれてるかも知れないのに。

 

有名人でマウント気にする人をあまり知らない。彼らはただ、自分と向き合ってる。

コンビニで世の中に不平不満を垂れるヤンキーがいるがそれがSNSにも飛び火したのか。

 

もう1つ理解不能なのはTwitter上でマウント云々という人。

Twitterはフォローが強制されないじゃないか。見たい人は自分で選べるじゃないか。

何故ツイートする前にフォロー解除しないんだよ。

 

僕は例え2、3人でも仲良く話してくれる人がSNSにいるから、使ってるだけだよ。

 

不思議で仕方がない。

 

ついさっき質問箱であなたもマウント要素かなりあると言われた。

 

言いたい事は1つ。

 

マウントが嫌なら、フォロー外すかミュートするかブロックしてくれ。

それ以外のマウントが嫌ならSNS全て断ち切って1人で部屋で過ごしてくれ。

外部と一切関わらない方がいい。

 

マウント取ってるんじゃないかと、話し方気をつけた時もあったけど、直ぐやめた。

会話が無味乾燥な乾パンみたいになった。何も楽しくない。

ガチでマウントキツい奴とマウント云々で責めてくる奴は話さないようにした。

 

多分その人に合わせても絶対良い人間関係築けない。

 

マウンティング取られたと過度に反応する場合、大抵その人自身に好意的な印象を持ってない場合が殆どだ。

 

要は先入観でマウンティング感度が上昇する。

 

思うに、大事な事はマウントを気にすることじゃなくて、マウントに変換しない事だと思う。

「マウント取られた」じゃなくて、「凄い人がいるもんだなぁ。」とモチベに変える事が出来れば少しは生きやすくなると思った。

 

要は捉え方の問題だ。

 

 

僕はマウントを取らない会話を心がける事自体は素晴らしいと思う。

円滑なコミュニケーションのために努力してるんだから。

でもやり過ぎは禁物。素の自分が死ぬ。

 

マウンティングを気にした会話よりも絶対自分らしくいた方が良い。

マウントを気にしたら何も出来ない。

本当にマウントがキツイ奴からは離れればいい。

 

 

少なくとも我々にはその選択肢があるのだから。

 

 

「マウント」を気にしたら何もできない。

 今年に入ってから「マウント」と言う言葉をよく耳にする。

 

相手を互いに格付けしあい、自分の優位性をアピールする、という意味らしい。

マウントを取る事を「マウンティング」と言う。最初は山登りの事だと思ってた。

流行り言葉かどうかはよく分からないけど。

 

思い返せば、確かに小さい頃、露骨なマウンティングは日常茶飯事だった。

 

「いや、この前さぁーwww」

 「それ言ったら、俺も昔に…笑笑」

 延々この応酬だ。この頃はマウントという言葉も知らなかったが、これで笑えてるうちはまだ良かった。

 

ところが最近この行為がマウントと知ってから途端に生きづらくなった。

何を言ってもマウントを取った取られた、となるからだ。

 

そもそもマウントが生まれる場は会話が圧倒的に多い。

ここで僕は疑問に思うんだが、マウントは最近になって大量発生したのではなくて、マウント という言葉を知ってから、皆んな過敏になり過ぎてるだけだと思う。

 

コミュニケーションは情報交換のために行われる。どこに行った、何が美味かった、あそこは楽しい、、、。

 

その後に「どうだ凄いだろう」と心中で勝手に加えれば立派なマウンティングの完成だ。

 

マウンティングなぞ人類が登場した頃からやってきた事だ。

筋トレして強そうに見せるのも、自己紹介も、思い出話も、プレゼンさえも解釈によっては全てマウンティングだ。 そう捉える人生の何が楽しいのか。

 

ただただ生き苦しい。

 

そもそも競争が生物、ひいては社会の原理である中でマウンティングは当然の事だと思う。

 

過度にマウントを気にする人がいるが、何て想像力豊かなんだろうと感心する。

と、同時に可哀想な人だとも思う。

 

その人がマウント取られたと思ってる目の前の人は、一生懸命有益なアドバイスをしてくれてるかも知れないのに。

 

もう1つ理解不能なのはTwitter上でマウント云々という人。

Twitterはフォローが強制されないじゃないか。見たい人は自分で選べるじゃないか。

何故ツイートする前にフォロー解除しないんだよ。

 

僕は例え2、3人でも仲良く話してくれる人がSNSにいるから、使ってるだけだよ。

 

不思議で仕方がない。

 

ついさっき質問箱であなたもマウント要素かなりあると言われた。

 

言いたい事は1つ。

 

マウントが嫌なら、フォロー外すかミュートするかブロックしてくれ。

それ以外のマウントが嫌ならSNS全て断ち切って1人で部屋で過ごしてくれ。

外部と一切関わらない方がいい。

 

マウント取ってるんじゃないかと、話し方気をつけた時もあったけど、直ぐやめた。

会話が無味乾燥な乾パンみたいになった。何も楽しくない。

ガチでマウントキツい奴とマウント云々で責めてくる奴は話さないようにした。

 

多分その人に合わせても絶対良い人間関係気付けない。

 

思うに、大事な事はマウントを気にすることじゃなくて、マウントに変換しない事だと思う。

「マウント取られた」じゃなくて、「凄い人がいるもんだなぁ。」とモチベに変える事が出来れば少しは生きやすくなると思った。

 

要は捉え方の問題だ。

 

マウンティングを気にした会話よりも絶対自分らしくいた方が良い。

マウントを気にしたら何も出来ない。

本当にマウントがキツイ奴からは離れればいい。

 

少なくとも我々にはその選択肢があるのだから。

 

 

貧乏旅行に連れられて

  去年の夏、台北を旅したときのこと。

 

物価は安いし、1週間だからどうにかなるだろう。

そう思い、現金を4万円弱しか持って行かなかった。見通しは甘かった。少ない持ち金で交通費、食費、宿泊費その他全てをやりくりしなければならなかった僕は貧乏旅行を続けた。結果的に最終日に結構余ったのだけど。

当然高級料理など食えるはずもなく、屋台街や安い食堂を巡った。その中の小さな楽しみが魯肉飯だった。台湾を代表する家庭料理の一つで、タレを染み込ませた肉を白米にのせる。値段も驚くほど安い。たったこれだけの料理がなぜか本当に美味かった。

あまりに美味かったので、行く先々で食っていたのだが、やがて味付けが少しづつ違っていることに気づいた。そこから何処が美味いかを勝手に比べた。

特に美味いな、と感じたのは花蓮台北中山にあった店。台湾独特の開けた食堂と、店を出るときに無愛想な店員が微かに見せる、「どうだ、美味かったろう。」と得意気な顔が印象的だった。

 

大金では決して買えない、貧乏が教えてくれた僕だけの楽しみだ。

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深夜特急の巡礼者

 「深夜特急」 

 この本の名前をご存知だろうか。少し年配で旅好きの方にはちょっと特別な響きがあるかもしれない。

 ノンフィクション作家の沢木耕太郎氏が自身の体験を基に書かれた作品だ。友人と賭けの末、インドのデリーから主人公が乗合バスでロンドンを目指す。無謀といえば無謀な物語だ。

 タイに行った時のこと。日程上長時間の移動を覚悟していた僕は深夜特急を1冊だけ持って行った。目的地まで一人の旅だったけどいつも隣に先人がいた気がした。心強かった。

 タイでの滞在の間に荷物に揉まれたり、水を垂らしたりと気づけば深夜特急はボロボロになってしまった。

 でも僕は悪い気はしなかった。寧ろ、ボロボロな方が深夜特急本来の姿であるような気さえした。

 この本は書棚に小綺麗に収まっているよりも旅に出て持ち主と様々な出会いをした方が良い。そう信じてやまない。

 今日も世界の何処かでこの本と共に僕のような若者が知らない街で不安そうに歩き回っているのだろうか。

 彼もまたこの本に魅せられて深夜特急に飛び乗ったのだろう。僕には何となく聖書を片手に聖地を目指す巡礼者の姿と重なった。

 ただ彼らに聖地は、無いのだけど。

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