「マウント」を気にしたら何もできない。

 今年に入ってから「マウント」と言う言葉をよく耳にする。

 

相手を互いに格付けしあい、自分の優位性をアピールする、という意味らしい。

マウントを取る事を「マウンティング」と言う。最初は山登りの事だと思ってた。

流行り言葉かどうかはよく分からないけど。

 

思い返せば、確かに小さい頃、露骨なマウンティングは日常茶飯事だった。

 

「いや、この前さぁーwww」

 「それ言ったら、俺なんか昔に…笑笑」

 延々この応酬だ。この頃はマウントという言葉も知らなかったが、これで笑えてるうちはまだ良かった。

 

ところが最近この行為がマウントと知ってから途端に生きづらくなった。

何を言ってもマウントを取った取られた、となるからだ。

 

そもそもマウントが生まれる場は会話が圧倒的に多い。

ここで僕は疑問に思うんだが、マウントは最近になって大量発生したのではなくて、マウント という言葉を知ってから、皆んな過敏になり過ぎてるだけだと思う。

 

コミュニケーションは情報交換のために行われる。どこに行った、何が美味かった、あそこは楽しい、、、。

 

その後に「どうだ凄いだろう」と心中で勝手に加えれば立派なマウンティングの完成だ。

 

そもそもマウンティングなぞ生物が登場した頃からやってきた事だ。

本能に従っているだけとは言え、動物の雄が立派な角を持ったり、雌を囲んだり。

高いスーツや腕時計、社会的ステイタスを身に纏う。

 

筋トレして強そうに見せるのも、自己紹介も、思い出話も、ブログもプレゼンさえも解釈によっては全てマウンティングだ。 そう捉える人生の何が楽しいのか。

 

ただただ生き苦しい。

 

そもそも競争が生物、ひいては社会の原理である中で他人より優位に見られようとするマウンティングは必然の事だと思う。

 

過度にマウントを気にする人がいるが、何て想像力豊かなんだろうと感心する。

と、同時に可哀想な人だとも思う。

 

その人がマウント取られたと思ってる目の前の人は、一生懸命有益なアドバイスをしてくれてるかも知れないのに。きっとその人の人生はつまんないんだろうな。

 

もう1つ理解不能なのはTwitter上でマウント云々という人。

Twitterはフォローが強制されないじゃないか。見たい人は自分で選べるじゃないか。

何故ツイートする前にフォロー解除しないんだよ。

 

僕は例え2、3人でも仲良く話してくれる人がSNSにいるから、使ってるだけだよ。

 

不思議で仕方がない。

 

ついさっき質問箱であなたもマウント要素かなりあると言われた。

 

言いたい事は1つ。

 

マウントが嫌なら、フォロー外すかミュートするかブロックしてくれ。

それ以外のマウントが嫌ならSNS全て断ち切って1人で部屋で過ごしてくれ。

外部と一切関わらない方がいい。

 

マウント取ってるんじゃないかと、話し方気をつけた時もあったけど、直ぐやめた。

会話が無味乾燥な乾パンみたいになった。何も楽しくない。

ガチでマウントキツい奴とマウント云々で責めてくる奴は話さないようにした。

 

多分その人に合わせても絶対良い人間関係気付けない。

 

思うに、大事な事はマウントを気にすることじゃなくて、マウントに変換しない事だと思う。

「マウント取られた」じゃなくて、「凄い人がいるもんだなぁ。」とモチベに変える事が出来れば少しは生きやすくなると思った。

 

要は捉え方の問題だ。

 

 

僕はマウントを取らない会話を心がける事自体は素晴らしいと思う。

円滑なコミュニケーションのために努力してるんだから。

でもやり過ぎは禁物。素の自分が死ぬ。

 

マウンティングを気にした会話よりも絶対自分らしくいた方が良い。

マウントを気にしたら何も出来ない。

本当にマウントがキツイ奴からは離れればいい。

 

 

少なくとも我々にはその選択肢があるのだから。