個性という無個性
美味しそうなグルメ、素敵な海外の写真、面白いブラックジョーク、美男美女の写真…。
SNSはとても面白い。
自分で使っていてつくづく実感する。
Twittrを開けば性別も国籍も大学も年齢層も本当に幅広い人々がそれこそ世界中から常に何かを発信している。最近では飛び降り自殺の動画まで流れた。絶え間なく洪水のように押し寄せる情報は我々の処理能力をはるかに上回る。
インスタをちょっと覗くと絶え間なくストーリーは更新され、質問やアンケート機能で発信者の考えを知ることまでできるようになっている。
これ自体は別に何も悪い事じゃないと思う。すぐに情報を手に入れることができて発信も簡単、おまけに共感した情報にはいいねやRTまでできる。
このサービス考えた人は本当にすごい。そりゃユーザーも増えるしハマるわな。
僕が使っているSNSは圧倒的にTwitterが多いのだけどここ最近ずっと違和感を覚えているものがある。
謎のハッシュタグとやたらと情報量の多いプロフィールだ。
「#◯◯◯インフルエンサー」とか「◯ヶ月で月収60万稼ぎました」とか「3ヶ月で会社を退職」などなど…。
インフルエンサーなんて最初は言葉の意味自体が分からなかった。何故彼らは自分の病気をわざわざプロフィール欄に書いてるのかと勘違いしていた。
最近は◯◯インフルエンサーが増えすぎて、みんな本当にインフルエンザに感染してるみたいだ。
入社してすぐに楽しいなんて思える仕事がこの世にどれだけ存在するかは甚だ疑問ではあるがかなり少ないだろう。てか別に会社辞めた事言う必要あるのか?
最近は「会社早期退職大会」でも開催されてるのか?
彼ら(彼女たち)の根底には一体何があるのだろうか。
それは「功名心」と「個性」だと思う。
先述のRTや、いいね👍機能は基本的に誰でもつけることができる。裏を返せば多くの「いいね」がつけばそれだけ多くの人が見てるとも言える。
そしてこれが不思議なんだけど「いいね」やRTが沢山来ると嬉しいのだ。
誰かが自分を見てくれている。自分の考えに共感を持ってくれる人がいる。誰かが自分を認めてくれた。 そう思わせてくれる。僕もいいねはいっぱい欲しい。
エリ・ヴィーゼルが愛情の反対は憎しみではなく無関心だと言った。
人間にとって無視される、話しかけてるのに目の前を素通りされる事は本当に辛い。多くの人が経験したことがあると思う。
インスタのいいね0はなくてもツイートに何もつかないことは多い。それでも現実のように傷つかないのは不特定多数が見ている場で発信していると理解しているからだろう。
だから他のユーザーからの反応が来ると我々は嬉しさや達成感を覚える。
ツイートに「いいね」が30も来た。嬉しい!また貰いたい!いや、もっと欲しい!
こうして最初は10で満足してた「いいね」に満足できなくなり20、30…と際限なく増えていく。
もはやタバコやドラッグとなんら変わりない。
同じ数のフォロワーからくる反応の数にはやはり限界がある。そこで次の事を考える。
「そうだ、フォロワー増やそう。」
こうしてフォロワーが増えそうな(ひいては反応が沢山来そうな)写真をアップしたり、捻ったツイートをしたり、悪質な手口だと炎上ツイートを投下する。
そんな流れで冒頭のSNSの面白さは作られ、僕達はその面白さを享受している。
しかし、だ。いいね、が欲しい人からすれば似たような情報は山程あるのでたまったもんじゃない。自分が埋もれてしまう。「個性」を出さねばならない。
あれこれ手を出して試してみる…。
結果、出来上がったのが謎のプロフィール欄やハッシュタグの山だ。
さて疑問に思う。彼らは本当にインフルエンサーとして個性が出ているのだろうか。
個人的な答えは否、だ。何故なら個性を追求しようとしている方法や目的、姿勢それ自体が既に無個性化しているから。
みんな華やかにプロフィール欄を飾るが僕には殆ど同じに見える。
今までは没個性というと集団の中で目立たない人というイメージだった。今では皆んなが発信するから返って目立たない。クラブで騒いでる客の中から目立つ奴を見つけようとするようなものだろうか。
でも世の中には実際に個性を認知される人々もいる。その違いはなんだろうか。
見てて思うのが彼らは個性を求めて何かをしていない。ただ自分の好きな事を追求していて個性が後から付いてきた。気がつけば「個性的」になったという人が多い。
要するに目的地が違う。「自分のやりたいこと」を純粋に追求したのか、それとも「他人との差別化を図るためなのか」違いはそこではなかろうか。
もし自分のやりたいことが個性の追求ならそれでもいいと思う。ここまでこんな記事書いていうのもなんだが別に発信すること自体は、悪い事じゃないし良い事だ。
ただ、「いいね」やRTが欲しいために腐心するのは勿体無い気もする。僕たちの人生思ってる程長くない。すぐに若い身体は消えてあっというまに死が訪れる。
SNSが日常の一部として無くてはならないものになってる今、それを考える事は無駄ではないと思う。