今まで幾つかの国を周ったけど、必ず僕がカメラを向けるものが二つある。路地とそれから猫達だ。

 カメラの履歴を見ると、どの国に行ってもそこにいれば猫の姿を撮っている。

 だが写真を見返して気づく。猫の写真はあるのに犬の写真は一枚も無いのだ。

 何故犬の写真は撮らないのか。それは自分でも分からない。別に意識的に撮らなかった訳では無い。でも不思議なくらい1枚も無いのだ。

 この写真は台湾で撮ったものだ。夜の喧騒が嘘のように消え去り賑わいを見せていた店がほぼ全てシャッターを下ろしている。その様相は九份をモデルにしたと言われる千と千尋の神隠しの朝そのものだった。

 いつも何度でもを聴きながらそんな事をぼんやり考えていた僕は宿への帰路で彼らに出会った。彼らもまた、眠そうであった。

 そういえば台湾に行く前は特に精神的に落ち込んでいて療養のつもりで急遽チケットを取った。

 僕が犬に惹かれないのは彼らが人間に飼われているからかもしれない。

 でも、旅先で首輪をつけた猫に会った事はまだ無い。自由気ままに過ごす彼らの中に僕は、自分を日常生活から解放してくれる旅を見出しているのだろうか。

f:id:Yamashun:20190623000944j:plain

 

 

 今まで幾つかの国を周ったけど、必ず僕がカメラを向けるものが二つある。路地とそれから猫達だ。

 カメラの履歴を見ると、どの国に行ってもそこにいれば猫の姿を撮っている。

 だが写真を見返して気づく。猫の写真はあるのに犬の写真は一枚も無いのだ。

 何故犬の写真は撮らないのか。それは自分でも分からない。別に意識的に撮らなかった訳では無い。でも不思議なくらい1枚も無いのだ。

 この写真は台湾で撮ったものだ。夜の喧騒が嘘のように消え去り賑わいを見せていた店がほぼ全てシャッターを下ろしている。その様相は九份をモデルにしたと言われる千と千尋の神隠しの朝そのものだった。

 いつも何度でもを聴きながらそんな事をぼんやり考えていた僕は宿への帰路で彼らに出会った。彼らもまた、眠そうであった。

 そういえば台湾に行く前は特に精神的に落ち込んでいて療養のつもりで急遽チケットを取った。

 僕が犬に惹かれないのは彼らが人間に飼われているからかもしれない。

 でも、旅先で首輪をつけた猫に会った事はまだ無い。自由気ままに過ごす彼らの中に僕は、自分を日常生活から解放してくれる旅を見出しているのだろうか。

f:id:Yamashun:20190623000944j:plain

 

 

パン

  マレーシアで思わぬ出会いをした。

 丁度春節の時に北京に行った時のこと。出国前にぱらぱらとガイドブックを書店でめくっていたら美味しそうなパンを見つけた。

 パン、と言っても日本の食パンとは違い中国のそれは蒸しパンで味が少し違うらしい。別に高級料理でもないけど、僕はどうしてもそれが食べたくなって5日の滞在期間中ずっと探し続けた。だがどこにも売っていなかった。

 そのあと少ししてマレーシアに行った。そこで街角の小さな食堂に入ったとき、ガラスのケースに収まったものを見ておや、と思う。近づいて見てみるとガイドブックで見た蒸しパンだった。しめた!と思い店員に注文する。

 まさかこんなところで出会えるとは。運ばれてきたパンは大きくて齧ってみると甘みは殆どない。素朴な味、とでも言うのだろうか。

 そういえばマレーシアは中華系が多い国だったな。そう思いながらもそもそパンを食べた。

 マレーシアの食べ物はどれも美味しかった記憶があるけど、マレーシアの食べ物と言われてすぐ思いつくのは、濁った気持ち悪くなるくらい甘いトウキビのジュースとあの蒸しパンなのだ。

f:id:Yamashun:20190621235007j:plain

 

空の芸術家

 飛行機の乗客は機内で動きやすいように通路側の席を取る事が多い。

だが僕はその逆でいつも窓際の席を狙う。雲海を見るためだ。

人間が決して造形できないような雲の形に文字通り息を呑む。

その度にふと思う。空の上には誰か住んでいるのではないか、と。

どんな姿かと毎回想像もしてみる。オーバオールのジーンズを着た峻厳な顔をした白い髭の老人がいつも浮かぶ。

二度、同じ姿の雲海に出会うことはない。この芸術家は相当偏屈で納得いかない作品は全て壊してしまうのだろうか。

そして彼はいつもいない。もしかしたら人見知りなのかもしれない。

今回も彼のいない仕事場を抜けて僕は目的地を目指す。

不意に思い出す。僕がいつも思い浮かべる老人はテューリンゲンの小さな村で知り合った彼だったことを。

f:id:Yamashun:20190614010241j:plain

 

個性という無個性

 美味しそうなグルメ、素敵な海外の写真、面白いブラックジョーク、美男美女の写真…。

 

 SNSはとても面白い。

 

自分で使っていてつくづく実感する。

Twittrを開けば性別も国籍も大学も年齢層も本当に幅広い人々がそれこそ世界中から常に何かを発信している。最近では飛び降り自殺の動画まで流れた。絶え間なく洪水のように押し寄せる情報は我々の処理能力をはるかに上回る。

 

インスタをちょっと覗くと絶え間なくストーリーは更新され、質問やアンケート機能で発信者の考えを知ることまでできるようになっている。

 

これ自体は別に何も悪い事じゃないと思う。すぐに情報を手に入れることができて発信も簡単、おまけに共感した情報にはいいねやRTまでできる。

 

このサービス考えた人は本当にすごい。そりゃユーザーも増えるしハマるわな。

 

僕が使っているSNSは圧倒的にTwitterが多いのだけどここ最近ずっと違和感を覚えているものがある。

 

 謎のハッシュタグとやたらと情報量の多いプロフィールだ。

 

「#◯◯◯インフルエンサー」とか「◯ヶ月で月収60万稼ぎました」とか「3ヶ月で会社を退職」などなど…。

 

 インフルエンサーなんて最初は言葉の意味自体が分からなかった。何故彼らは自分の病気をわざわざプロフィール欄に書いてるのかと勘違いしていた。

最近は◯◯インフルエンサーが増えすぎて、みんな本当にインフルエンザに感染してるみたいだ。

 

 入社してすぐに楽しいなんて思える仕事がこの世にどれだけ存在するかは甚だ疑問ではあるがかなり少ないだろう。てか別に会社辞めた事言う必要あるのか?

最近は「会社早期退職大会」でも開催されてるのか?

 

 彼ら(彼女たち)の根底には一体何があるのだろうか。

 

 それは「功名心」「個性」だと思う。

先述のRTや、いいね👍機能は基本的に誰でもつけることができる。裏を返せば多くの「いいね」がつけばそれだけ多くの人が見てるとも言える。

 

 そしてこれが不思議なんだけど「いいね」やRTが沢山来ると嬉しいのだ。

 

誰かが自分を見てくれている。自分の考えに共感を持ってくれる人がいる。誰かが自分を認めてくれた。 そう思わせてくれる。僕もいいねはいっぱい欲しい。

 

 エリ・ヴィーゼルが愛情の反対は憎しみではなく無関心だと言った。

人間にとって無視される、話しかけてるのに目の前を素通りされる事は本当に辛い。多くの人が経験したことがあると思う。

 

 インスタのいいね0はなくてもツイートに何もつかないことは多い。それでも現実のように傷つかないのは不特定多数が見ている場で発信していると理解しているからだろう。

 

 だから他のユーザーからの反応が来ると我々は嬉しさや達成感を覚える。

 

ツイートに「いいね」が30も来た。嬉しい!また貰いたい!いや、もっと欲しい!

こうして最初は10で満足してた「いいね」に満足できなくなり20、30…と際限なく増えていく。

 

もはやタバコやドラッグとなんら変わりない。

 

同じ数のフォロワーからくる反応の数にはやはり限界がある。そこで次の事を考える。

 

「そうだ、フォロワー増やそう。」

 

こうしてフォロワーが増えそうな(ひいては反応が沢山来そうな)写真をアップしたり、捻ったツイートをしたり、悪質な手口だと炎上ツイートを投下する。

 

そんな流れで冒頭のSNSの面白さは作られ、僕達はその面白さを享受している。

しかし、だ。いいね、が欲しい人からすれば似たような情報は山程あるのでたまったもんじゃない。自分が埋もれてしまう。「個性」を出さねばならない。

あれこれ手を出して試してみる…。

 

 結果、出来上がったのが謎のプロフィール欄やハッシュタグの山だ。

 

さて疑問に思う。彼らは本当にインフルエンサーとして個性が出ているのだろうか。

 

個人的な答えは否、だ。何故なら個性を追求しようとしている方法や目的、姿勢それ自体が既に無個性化しているから。

 

みんな華やかにプロフィール欄を飾るが僕には殆ど同じに見える。

今までは没個性というと集団の中で目立たない人というイメージだった。今では皆んなが発信するから返って目立たない。クラブで騒いでる客の中から目立つ奴を見つけようとするようなものだろうか。

 

でも世の中には実際に個性を認知される人々もいる。その違いはなんだろうか。

 

 見てて思うのが彼らは個性を求めて何かをしていない。ただ自分の好きな事を追求していて個性が後から付いてきた。気がつけば「個性的」になったという人が多い。

 要するに目的地が違う。「自分のやりたいこと」を純粋に追求したのか、それとも「他人との差別化を図るためなのか」違いはそこではなかろうか。

 

もし自分のやりたいことが個性の追求ならそれでもいいと思う。ここまでこんな記事書いていうのもなんだが別に発信すること自体は、悪い事じゃないし良い事だ。

 

ただ、「いいね」やRTが欲しいために腐心するのは勿体無い気もする。僕たちの人生思ってる程長くない。すぐに若い身体は消えてあっというまに死が訪れる。

 

SNSが日常の一部として無くてはならないものになってる今、それを考える事は無駄ではないと思う。

 

 

 

 

昭和-平成 反省会

「あぁ、気にしなくていいよ笑 吸殻捨てるだけだし。」 知らないおじさんは僕に言った。

元号発表直前、数日前にタイから帰国後風邪を引いた僕は眠れず散歩がてら近くのコンビニにタバコを吸いに来ていた。
友達と元号の案を出し合いどれが当たるかなどとやってきた時にトラックが駐車場に停まりおじさんが近づいてきたので席を開けて火をつけてあげようとした時に向こうが先にそう言った。

 彼も僕の座っていたベンチの隣に腰掛け一本火をつける。
 
  僕は少し気まずくなって
「次の元号はどうなるんですかねぇ。」
などと話しかけてみた。

 彼は少し驚いて、そして凄く親しみある笑みで、
「どうなるんだろうねぇ。でも昭和から平成の時は静かだったよ。何しろ天皇崩御してるからね。今のようなムードじゃなかったな」と言った。

 彼は運送業だったが色々教えてくれた。
昭和から平成の時はコンビニのネオンが自主消灯し、街が真っ暗だったこと。団地で騒ぐ子供の声が聞こえなかったこと。などなど

 それは今のムードからはとても考えられなかった。

 そこから平成を遡るささやかなな会が始まった。彼はまるで1人言の様に僕が知らない平成や昭和を話してくれた。

 バブル時代は週末の3日のバイトで40万稼げたこと。

リーマン・ショックの直後高速のタクシーが激減した事。

今のアニメは大好きだが規制がかかって残念。今はスマホでエロ動画を見られるが昔はそれが無くてキューティーハニーが貴重だったこと。などなど。

僕じゃなくて遠くを見るその視線は自分が青春時代を過ごした時代に思いを馳せているようで独り言のようだった。

少し浮世離れしたその姿は僕のお世話になった予備校の恩師を思い出させた。

 僕が昭和や平成の色々な話をしたら勤勉な学生だと褒めてくれた。

 大学はどこかと聞かれて、場所を答えるとそこは昔陸軍のスパイ養成所だった場所だ。
だから秘密の地下壕があるかもよ、と教えてくれた。

 その場に定まった元号は無かった、互いの生きた時間をぐるぐると行ったり来たりしていた。

 それがとても心地よい時間だった。

 彼が家に帰ることになり何故か令和でも頑張りましょう、また会いましょうと言って別れた。

  加えた煙草に火をつける。煙草の先からゆらゆらと昇る煙と共に自分が産まれて物心ついてから今にいたるまでの思い出が浮かんでは消えていく。

次の元号がどうなるのかはその時はまだ分からなかった。

でも令和から次の元号に変わる時、僕の知らない時代を教えてくれた彼のように若い世代の人とベンチに並んで話がしたい。そう思った。

 「僕が若い頃はまだ平成だったんだ。その時はね…。」
 
 彼のように語る年老いた自分を想像した。

 その想像も煙と共に空に消えた。

僕は吸ってた煙草を灰皿で消して。
コンビニを後にした。






Don't forget our critical thinking

 世間が一日千秋の思いで待ったGW初日、僕は自宅で転がって本を読んでいた。

 

かの偉大なギリシャの哲学者ソクラテスが死刑を宣告されて自ら毒を飲み死んだことに因んで、4月の27は哲学の日となっている。

そんな訳で僕も今日は哲学の本をチョイスしてページをめくっていた。

 

著作家の山口周さんが書いた「武器になる哲学」という本だ。

 

 実を言うとまだ読み終えていないのだけど、既に買って良かったと思える本だった。

 

読み進めていく中で特に印象に残ったのは、ユダヤ系の政治哲学者ハンナ・アーレントの項目だった。

 

 彼女は「悪とはシステムを無批判に受け入れること。」と説いた。

遡ること80年程前ヒトラー率いるナチス・ドイツアーリア人至上主義の思想もと、ヨーロッパを侵略し第2次世界大戦を引き起こした、という見方がある。

 

その間ナチス・ドイツは国内外のユダヤ人を迫害し、強制収容所へ送り過酷な労働に従事させ、理不尽な理由で殺害を繰り返した。その結果何百万人という命が失われることとなる。世に言うホロコーストである。

 

 僕も大学1年の夏ドイツ国内にある有名な強制収容所を見学した事がある。

その時見たものは僕の想像を遥かに超えるものだった。よくもここまで人を殺す工夫を凝らしたものだと、驚くばかりだった。

何よりもこれをやったのが同じ人間だった事が信じられなかった。

ドイツの夏は涼しいが、夕方の収容所の物寂しい涼しさは今でも覚えている。

 

 その強制収容所で最も悪名高いのがアウシュヴィッツ収容所、そしてその輸送責任者だったアドルフ・アイヒマンという人物だ。

 

彼に関して有名なエピソードがある。アイヒマンはドイツが連合軍に降伏した後、アルゼンチンへ逃亡、その後当局によって拘束されイスラエルで裁判を受けた。

 

連合国や裁判の関係者は法廷に現れたアイヒマンを見て驚いたという。

皆が想像してたものとは違い家族がいるごくごく普通の人物だったからだ。

 

彼は上からの指示に従っただけだと主張するも最終的には死刑となる。

 

これを通して言いたいのはアイヒマンが可哀想、ではない。

「人が思考停止する事にはとてつもない危険が隠れている。」 と言うことだ。

 

思い返すと、外から入ってきた情報をただ受け入れているだけの事が日常では思っている以上に多い。広告、SNS、そして大学の授業。

 

 僕らは、いや少なくとも僕はただ外から与えられたものを疑わずに信じてしまう。それが悪意を持って発信されたものかもしれないのに。

 

 アーレントはシステムについて言及しているが、これは日常生活の殆どに当てはまる。

 

僕は「尊敬はいい。でも崇拝は危険だ。」と考えてる。

何故なら崇拝の域まで達すると思考停止し対象の言う事が全て正しく思えてしまうからだ。自分で考える事を辞めてしまう。

 

 SNSが高度に発達した世の中では誰もが情報を発信できる。頭の回転の速い人ならすぐにフォロワーを増やし教祖、つまりインフルエンサーになれる。

 

SNSは個人アカウントがあるので我々には数え切れないほど崇拝する選択肢がある。

 

僕らが崇拝する土壌は整っているようなものだ。

 

でもそこで得た情報は本当に正しいのだろうか? 彼の成功法は自分にも当てはまるのか?ニュースはどの視点から報道してるのか?

 

受け取ったものを一旦頭の中で色んな角度を見てみることが必要なのではなかろうか。

 

僕は情報を発信する存在は悪いとは全く思わない。危険なのは受け手だ。

 

時代は変わっている。思考停止したところで遠い過去の時代のアイヒマンのように誰かを殺す機会は日常でそう起こらないだろう。

でも知らぬ間に誰かにコントロールされてるかもしれない。

或いは既にされているのかもしれない。

 

自分が望むように生きたいと思う人は多い。批判的に物を見るということは時に外からの流れと真っ向からぶつかると言うことだ。それは楽な事ではない。

 

でもこれだけ情報が、教祖がネット上に氾濫している今批判的に物を見る能力はこの流れを泳ぐために必要な能力だと信じている。

 

できればこの記事も徹底的に批判的に見て欲しい。

 

それに批判的な考えは悪い事ばかりじゃない。新しい一面に出会えるという素敵な一面もあるんだ。

 

それについては後日別な記事で。